丹後守護大名一色氏の歴史
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清和源氏義家流足利支流 一色氏発祥の地 |
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一色氏は清和源氏義家流足利義氏の惣領足利三郎宮内少輔泰氏の七男公深を祖として
三河の吉良荘一色村(現・愛知県西尾市一色町)を領知していたので、一色姓を称する。
昭和59年(1984年)4月1日 一色氏発祥之地碑建立 南潮山安休寺(浄土真宗大谷派)山門前
愛知県幡豆郡一色町大字一色字中屋敷2
安休寺は1357年に一色有義が父である吉良満義の菩提を弔うため創建したと伝わる。
吉良から一色へ改姓した有義は、公深系である重之流一色同族会とは関係がない。
一色の地は足利泰氏の子である一色公深及びその子頼行が本貫の地としていたが、
早い段階で関東へ移り住み吉良氏が領することになり赤羽根城に居住したと伝わる。
そして、吉良有義は一色郷を領したことから[一色殿]と呼ばれて一色有義と改名。
公深系一色氏の遺跡は一色町内では見られず、境内隣に発祥之地の石碑がある
だけである。
平成12年(2000年)9月23日 安休寺の意向により、隣地の公園に移設
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一色氏祖 一色公深公の墓所 |
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昭和58年(1983年)9月25日 一色公深公供養碑建立 龍興山宝持寺(曹洞宗)本堂裏手左側
埼玉県幸手市北1丁目2−31
宝持寺は鎌倉末期に一色公深(公保)が父・足利泰氏の遺領・下総国葛飾郡田宮荘を相続し、
三河国幡頭郡一色より移住して館を構えた場所といわれています。
又、宝持寺は一色公深が開基したものであり、また埋葬されております。 |
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丹後守護一色氏代々控(抜粋)/梅本政幸氏著書 |
丹後守護は、天正7年まで188年余り続いた。 |
初代 満範(ミツノリ) |
二代 義貫(ヨシツラ) |
三代 教親(ノリチカ) |
四代 義直(ヨシタダ) |
五代 義春(ヨシハル) |
六代 義秀(ヨシヒデ) |
七代 義有(ヨシアリ) |
八代 義清(ヨシキヨ) |
九代 義員(ヨシカズ) |
十代 義定(ヨシサダ) |
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十代丹後守護一色五郎義定(ヨシサダ)は、右馬三郎範之(後の重之公)の兄と伝わる。
天正6年から7年にかけて一色義員が足利義昭に組みしたるを織田信長に嫌疑をかけ
られる。一旦は信長より安堵されていた丹後を長岡藤孝(細川幽斎)と明智光秀に攻め
られ、激しい戦の末敗北し義員は中山城で自刃した。
残された一族縁者の長男義定はその後許され信長に2万石を与えられ大名となり
弓木城に居て長岡藤孝(幽斎)の娘伊也を娶たが、天正十年明智光秀の乱(本能寺の
変)に加担した疑いをかけられた。羽柴秀吉に付いた藤孝は類を及ぶのを恐れ娘婿で
ある五郎義定を宮津城内に呼び出し討った。
一方、三男の右馬三郎範之(後の重之公)は天正八年(1580年)、外祖父河野(村上)
通泰との縁により、一族と共に伊予(豫州)へ来ていた。
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丹後守護一色氏 供養塔
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【曹洞宗 大圓山盛林寺】
(京都府宮津市喜多696)
平成2年(1990年)5月13日 丹後守護一色五郎・藤長 供養碑建立 山門左側 |
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