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沿革
丹後守護大名一色氏
三津屋重之流一色氏
重之公没後四百年祭
明理川庄屋先祖祭
始祖菩提寺 長福寺
明理川 円福禅寺
一色氏研究会
     
明理川庄屋一色家先祖祭

最近の先祖祭
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明理川庄屋始祖一色家若宮神社改築記念
 明理川在住の私達一族は、先祖を敬い供養する為、そして、親睦の為、年に一度
『先祖祭』を開催しております。初代明理川村庄屋一色新兵衛重好が亡くなったのは
宝永4年(1707)で、300年余前。先祖祭を始めたのは、慶応元年(1865)です。
                            
 若宮神社が老朽化しましたので、この度、50年ぶりに改築を致しました。
明理川へお越しの際は、是非、参拝の程をお願い申し上げます。
    平成18年2月吉日
明理川一色家 一同
平成18年2月26日 落成式・祝賀会




明理川村庄屋一色家先祖祭
   
毎年、旧暦6月13日開催
(近年は直近の日曜日)
   
重之流家系図/重次系(明理川)
若宮神社 普請  (棟梁 : 一色春忠)

百五拾余年の御奉納帖(出席者名簿)



明理川一色家の菩提寺は、臨済宗東福寺派 江西山 圓福寺(円福寺)

( 愛媛県西条市明理川205番地 )


明理川(あかりがわ)の沿革


   郷土の歴史 明理川について
     
                         壬生川公民館
   沿 革
  
 東予市の中心流れ豊かな新川堤に足をとめ、目を西に向けると一きわこく
 緑の森が見えるここが明理川の守護神柳の森神社である。当地区明理川は
 農業適地として開墾が行なわれ栄えた所で、昔を偲ぶ地名(紫宸殿、天皇)
 が今も残っている。『口碑』によると往古の頃この里に『波周敷大明神』
 と称する鎮守様があったという。この鎮守様の前に川があり、農耕も便利
 で住み良い里である事を喜び、鎮守様の『明』の字を頭字に、里は『神』
 に守られ栄えゆく意味で里の字を次につけ、美しい川に沿って集落がの
 びるように川の字を添え『明里川』と呼んだのが明理川村の名の起こりと
 いわれている。往時明里川は円海寺、北多台、入り川(にゅうがわ)と共
 に桑村郡御井郷に属していた。郡司にはこの地方に勢権を張っていた土豪
 越智氏、又、凡氏が任ぜられ、その館は現在の新市長覚寺に在ったと伝え
 られている。
降って文和元年(一三五二)丹生川(にゅうがわ)浦古子の地先
 を聖地と定め、伊予の守護職 河野通盛、伊勢神宮を勧請した。この時、
 明理川は壬生川、円海寺、喜多台と共に『千貫の地』として伊勢神宮(鷺の
 森神社)の神領となった。
応永元年(一三九四)伊予の守護職河野通之神領を
 没収(南北朝合一後三年目)し、その一族桑原通興をして鷺の森に城を築か
 せた。桑原氏は姓を壬生川と改め、代々ここを居城に、道前の地を治めて
 いたが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の四国平定の時、小早川隆景の攻
 撃を受け、河野家と共に滅び隆景の所領となる。
その後、福島正則が領し、
 更に加藤嘉明、蒲生忠知等が領し、寛永十二年(一六三五)松平定行松山
 藩主として転封以来松山領として明治維新を迎えた。この間、治水に、又、
 開墾に励み、今日の素地をつくった先人の功績は誠に大きい。
松山藩大手
 鏡石高調べによると、明理川は二百二十一石二斗一升と記されている。
 (元禄 十二年調べ)明治四年藩が廃止となり松山県となった。この時、
 区制が布かれ、桑村郡は第十大区、明理川は第九小区となる。この行政
 区画はしばしば変更があり、明治十一年区制廃止の頃、明理川は第十大区、
 第十五小区に属していた。明治十一年郡区町村編成法が布告せられ、
 大区小区の制がなくなり、大区の事務は郡長に、小区の事務は村戸長に
 引継となった。

 明治二十三年、明理川、喜多台、円海寺、大新田、壬生川、五村併せて
 壬生川村をつくり明理川は壬生川村大字明理川となり、現在は大字が
 なくなり、東予市明理川と呼ぶようになった。


     昭和五十年現在 明理川の戸数は 八四戸  人口は三〇九人

上記は、壬生川公民館から明理川集会所へ移設した掲示板の内容です。

   その後、平成16年11月1日、西条市、東予市、周桑郡丹原町、周桑郡小松町の
  合併に依り、『 愛媛県西条市明理川 』になりました。
   因みに、合併時の戸数は144戸