郷土の歴史 明理川について
     
     

                                 壬生川公民館
   沿 革
  
 東予市の中心流れ豊かな新川堤に足をとめ、目を西に向けると一きわこく緑の森が見える
 ここが明理川の守護神柳の森神社である。当地区明理川は農業適地として開墾が行なわれ 
 栄えた所で、昔を偲ぶ地名(紫宸殿、天皇)が今も残っている。『口碑』によると往古の頃
 この里に『波周敷大明神』と称する鎮守様があったという。この鎮守様の前に川があり、 
 農耕も便利で住み良い里である事を喜び、鎮守様の『明』の字を頭字に、里は『神』に守 
 られ栄えゆく意味で里の字を次につけ、美しい川に沿って集落がのびるように川の字を添 
 え『明里川』と呼んだのが明理川村の名の起こりといわれている。往時明里川は円海寺、 
 北多台、入り川(にゅうがわ)と共に桑村郡御井郷に属していた。郡司にはこの地方に勢 
 権を張っていた土豪越智氏、又、凡氏が任ぜられ、その館は現在の新市長覚寺に在ったと 
 伝えられている。

 降って文和元年(一三五二)丹生川(にゅうがわ)浦古子の地先を聖地と定め、伊予の守護職 
 河野通盛、伊勢神宮を勧請した。この時、明理川は壬生川、円海寺、喜多台と共に『千貫 
 の地』として伊勢神宮(鷺の森神社)の神領となった。

 応永元年(一三九四)伊予の守護職河野通之神領を没収(南北朝合一後三年目)し、その一族 
 桑原通興をして鷺の森に城を築かせた。桑原氏は姓を壬生川と改め、代々ここを居城に、 
 道前の地を治めていたが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の四国平定の時、小早川隆景の 
 攻撃を受け、河野家と共に滅び隆景の所領となる。

 その後、福島正則が領し、更に加藤嘉明、蒲生忠知等が領し、寛永十二年(一六三五)松平 
 定行松山藩主として転封以来松山領として明治維新を迎えた。この間、治水に、又、開墾 
 に励み、今日の素地をつくった先人の功績は誠に大きい。

 松山藩大手鏡石高調べによると、明理川は二百二十一石二斗一升と記されている。(元禄 
 十二年調べ)明治四年藩が廃止となり松山県となった。この時、区制が布かれ、桑村郡は 
 第十大区、明理川は第九小区となる。この行政区画はしばしば変更があり、明治十一年区 
 制廃止の頃、明理川は第十大区、第十五小区に属していた。明治十一年郡区町村編成法が 
 布告せられ、大区小区の制がなくなり、大区の事務は郡長に、小区の事務は村戸長に引継 
 となった。

 明治二十三年、明理川、喜多台、円海寺、大新田、壬生川、五村併せて壬生川村をつくり
 明理川は壬生川村大字明理川となり、現在は大字がなくなり、東予市明理川と呼ぶように 
 なった。

                 昭和五十年現在 明理川の戸数は 八四戸
                            
人口は三〇九人

      上記は、壬生川公民館から明理川集会所へ移設した掲示板の内容です。

   
     その後、平成16年11月1日、西条市、東予市、周桑郡丹原町、周桑郡小松町の
    合併に依り、愛媛県西条市明理川 となりました。
        
            因みに、合併時の戸数は、144戸    美男美女揃いです ! !